原題:Hidden
原作:Dreiser
試訳:FF(00・9・17)


苦しそうな息とともに、姫さまの胸が激しく上下に動く。
また、あの悪夢なのですね、姫さま。あたしにはわかります。
ガルスから救い出された時から、姫さまは、変わってしまわれた…。
うわべでは、誰であろうと、以前と同じファトラさまなのに。
ルーン・ヴェーナスさまですら、姫さまの変化に気がついていらっしゃらない。
でも、あたしにはわかるんです…姫さまの、痛みが。
寝息にはかすかな呻き声がまじり、恐怖に眉を歪めておられる。
ベッドの寝返りが奇妙なほど、穏やかに聞こえる。

姫さま、あなたの本当の姿を、知っているのはあたしだけ。

お母さんが教えてくれたっけ。
本当に心の優しい人は、外見はきつく見えるもんだ、って。
そうだ、同じ言葉が地球にもあるって、まことも言ってた。

手の冷たい人は、心はあったかいんだ、って。

あの言葉、姫さまにぴったり当てはまります。
でも、冷たいのはあなたの手じゃなくて、あなたの「仮面」だったんですね。

あたし、無理に笑顔を浮かべながらおそばに寄って、姫さまの髪を指に巻く。
あたしの指が触れたせいでほっとされたんでしょうか、姫さまは、ほっと息
を漏らして身体を丸めた。

眠っている姫さまは、天使。知っているのは、あたしだけ。

でも、目を覚ましたら、姫さまはまた、あの最低な人になっちゃうんでしょうね。
あれ、あたし本当は嫌いなのに。大嫌いなんですよ、姫さま。

***

今でも初めて出会った日のことを、あたし、はっきり憶えてます。
甘い花の香りを風が運ぶ野原で、あたし、花を摘むのに夢中で、車が近づいていた
ことにも気づかなかったっけ。
その時突然、後ろから声がかかったの。

「そなた、なぜ花を摘んでいる?」

振り向くと、あなたが、居られました。
ああ、高貴なる姫さま、ロシタリアのプリンセス・ファトラさま。

目の前に立たれる姫さまのお姿に、あたしはびっくりして固まっちゃいました。
ファトラさまご自身は恐ろしく見えたりしないけど、周りをぐるっと衛兵たちが
取り囲んでいたもんだから、あたし怖くなっちゃって、身体がすくんじゃった。
それに気づいた姫さまは、二言三言衛兵に命じて遠く離れさせました。
ウーラだけを護衛に残して。

あたしと目を合わせて、姫さまは全く同じ問いを繰り返しました。

「なぜ、花を摘んでいる?」

あたしがどう反応したか、よく覚えてます…。
あたしがひきつったような笑いを浮かべると、姫さまは眉をキッとつり上げたの。
それを見てあたし、あわてて口を閉じると、答えました。

「きれいな花が、好きだからです」

姫さまはちょっと考えて、それからすべてわかったという表情でにっこり微笑まれ
ましたね。

「そうか、そなたはきれいな花が好き、だから、自分のものにしたいということだな。
そうであろう?」

「は、はい」
ためらいがちに、あたしはうなずきました。

「お、おっしゃるとおりだと、思います。て言うか、きれいな花が好きだから、自分
のそばに置きたいって…」

「ほお…」

 姫さまったら、なぜかとっても色っぽい声で言ったの。
燃えるような褐色の瞳であたしを見つめながら、そして、そっと近づいていらっしゃって。

「そなたの名前は?」

「あ、アレーレ、です。姫さま!」

あたし、思わず早口で答えたの。
そしたら姫さまは、そっとクスッと微笑まれて、それからうざったそうに手を振って。

「堅苦しい呼び方は、やめよ」
そう言う姫さまの瞳の、熱い視線。
「わらわのことは、ファトラ、と呼んでよいぞ」

長い沈黙が続いた後、ファトラさま、もっとそばに寄ってこられた。
ファトラさまの息づかいが、あたしの肌に感じられるくらいに。
ああ、そしてファトラさまの指が、あたしのあごに触れて、あたしの顔を持ち上げて…、
あたし、からだ中が震えてしまったんです。
そして二人の目と目が合って。にっこり笑ったファトラさまが言った言葉、あたし、
死んでも決して忘れません!

「アレーレ」
静かな声で。
「わらわは、きれいなそなたが好きじゃ。だから、そなたをわらわのそばに置きたい」

その言葉が、あたしの心の中で雷鳴のように響き続けました。
ようやく気を取り直したあたしは、口ごもりながら答えたんです。

「で、でも…、どうして?いったい…なぜなんですか?」

もういちどそっと微笑まれただけで、ファトラさまの顔があたしに迫ってきて、二人の
唇が今にも触れあわんばかりに…。

「アレーレ」
ささやき。
「わらわと一緒に来い。わらわの宮殿に」

そして、…口づけ。

「はい」
息を詰まらせながらの、あたしの答え。

宮殿に着いたものの、わたしのことをどう扱ったらいいのか誰もわからなかったし、あたし
も何をどうしたらいいのかわからなかった。
ファトラさまは、あたしに何の仕事もお与えにはなりませんでした。
あたしがなぜここにいるのか、誰が訊いても、あたしが直接お訊きしても、ファトラさまの
お答えはいつも一緒。

「アレーレが、わらわのそばに居ればよいのじゃ」

***

いきなりベッドの上で身をよじったファトラさまが、また拷問のような苦しい喘ぎ声を漏ら
した。
あたしがファトラさまを引き寄せると、抱きついてきたファトラさまに逆にあたしが抱きし
められちゃった。
ほっと安心したような息を漏らしたファトラさまの胸に、あたしは顔を埋めた…。
何時間も経って、ようやくファトラさまは落ちつかれました。

お戻りになって以来、ファトラさまにとって「眠ること」がいちばん難しいことになって
しまいました。
そして、あたしの望みは、ファトラさまの心の重しが少しでも軽くなる日が来ること。

ファトラさまがさらわれた時、あたしは自分を責めた。二人が出会った日から、一度も
ファトラさまのおそばを離れたことなんかなかったのに。
よりによってその最初の時に…ファトラさまは連れ去られてしまったの。
わかってる、自分が誘拐されたことでファトラさまがあたしを責めたりなんかなさらな
いって。
ほんとうに、誰も、ウーラだって責めたりなんかなさらないって。そんなことを言うお方
じゃないって。
でも、それは、ファトラさまの仮面。
ほんとうの自分を隠し、守るために着けている仮面。
常に人目にさらされる生活で、人を信じられなくなったせい?
それとも、お二人のお姉さまより一生低い立場でいなくてはならないせい?
どっちだとしても、その仮面がファトラさまの心を隠す壁になってしまったのです。
そして、その仮面の存在すらも上手にお隠しになるファトラさまに、あたし自身も時々
その仮面の存在を忘れてしまうほど。

寝息がだんだんと落ちついてくる。もっとあたしに寄り添って身体を丸めるファトラさま。
まるで二人の身体が一つに溶けていってしまいそう。
あたしはそっと微笑みながら、ファトラさまのお背中をさする。

時々、ファトラさまがおそばにいないときに、勇気を出してあたしに訊いてくる人がいるの。
なぜ、アレーレはファトラさまのそばにいるの?って。
いつもあんなに口汚く罵られて(他の人にはそう見えるでしょうね)、どうして我慢して
いられるの?って。

あたしは、いつも笑ってこう言うの。

「あたし、ファトラさまにいつもそばにいてほしいの」

<終わり>